セーラー出版は2013年7月1日をもちまして、社名を「らんか社」に変更しました。

  • 山田兼士先生のこと

    山田兼士先生が亡くなって一年になる(ぼくは教え子なので「先生」と呼ぶ)。12月6日。今日が命日。一周忌である。

    ぼくが大学を卒業した翌年に、先生は専任講師として大阪芸術大学の教職に就かれた。それでもぼくが教え子になるのは、卒業に単位が足りなくて一週間の春期集中講座という講義に出て、その講師が専任になる直前の山田先生の大阪芸大での最初の講義だったから。テーマは宮沢賢治の「風の又三郎」。講義は最後の最後に感動的な盛り上がりを見せた。このような講義をする先生と入れ違いになるのかと思うと、卒業することが残念だった。亡くなられるしばらく前にこの講義のことを話すと、「若かったから気合が入っていた」とおっしゃっていた。文学が「わかる」という感覚を、ぼくはこのとき初めて感じたのではないかと思う。

    ぼくは卒業して小さな出版社に入社し、編集者として『ボードーレール「パリの憂愁」論』 J・A・ヒドルストン著/山田兼士訳(沖積舎)の出版に携わった。当時先生は盟友長野隆氏やその他の若手研究者たちと「詩論」という、内容・装丁ともにレベルの高い文学研究の同人雑誌を発行されていた。この雑誌に発表した論考で本が作れると思ったが、ぼくは児童書の出版社に転職してしまった。その児童書出版社でも、絵本の翻訳を二冊お願いした。絵本とはいえ文学的な趣きのある絵本で、巻頭にはそれぞれランボーの詩やボリス・ヴィアンの言葉が引用されていた。そのうちの一冊は『オレゴンの旅』という絵本で、長く絵本愛好家ばかりか詩人や文化人にも愛されている。

    この絵本の打ち合わせのために、先生の志摩の別荘を訪ねたことがある。駅からタクシーに乗ったものの、途中で道に迷った。1990年代中半、携帯もGPS付きの地図もない。タクシーを降りて公衆電話で道を聞き、なんとか歩いて先生の別荘にたどり着いた。

    打ち合わせといっても名目なので、すぐに庭で地鶏と地元海産物のバーべキューをご馳走になった。肉を焼くトングを持つ先生の手は大きく震えていて、家族から「アルコール中毒」と茶化されていた。「緊張して手が震えちゃうんだよ」とおっしゃっていた。どっちだろう? お酒はお付き合いと晩酌程度だったと思う。普段からワインをよく飲んでおられたように記憶している。

    このときのことを、奥様で歌人の山下泉さんが短歌に書いてくださった。

     「家の場所確かめる電話ありしのち絵本作家は庭より来る」

    ぼくは絵本編集者でちゃんと玄関から入ったが、短歌では絵本作家で道を聞いたにもかかわらず庭から入ってきたことになっている。

    当初先生は、「自分は研究者であって詩は書かない。自分は現代詩の良質な読者でいたい」とおっしゃっていた。ところが後に詩の実作者になられた。偶々ではないだろう。計画して、騙していたに違いない。真相を聞いておけばよかった。

    *この文章は、2023年12月6日『オレゴンの旅』の翻訳者である山田兼士先生の命日に、らんか社の高橋啓介が個人のFacebookに掲載したものを再掲載しました。

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